My Bike History:HONDA CBR400F
いままで乗ってきたバイクを思い出すシリーズ第3回目です。
前回の続きから、3台目はHONDA CBR400Fです。
1980年代、時はまさに空前のバイクブーム。
高校生はバイクに乗りたがり、大人はそれを「三ない運動」という形で抑えつけようとしていた時代。(但し、私の学校はバイク乗っている生徒いるわけないような女子高だったので、全く影響なし…)
中型免許で乗れる最大排気量である400ccクラスに、HONDAは1981年CBX400Fという名車を投入するも、4メーカー激戦の中、わずか2年でこのCBR400Fにモデルチェンジ。
CBR400Fは1983年12月20日に発売され、8500rpmを境に2バルブから4バルブに切り替わる回転数応答型バルブ休止機構「REV」を採用、発売当時クラス最高の58PS/12,300rpmの出力と太い中低速トルクの両立を実現したインライン・フォアエンジンのモデルです。
VT250F INTGRAを事故で失った私は、当時母がVF400Fに乗っていたのでVFという選択肢はなく、弟がGPz400Fだったのでこの選択もなく、いとこがXJだったし、SUZUKIのバイクは初めから選択肢になかった(元SUZUKIワークスライダーのいつもお世話になっている皆様方、本当にすみません。GSX-Rやガンマ250に興味はあったのですが前に書いてあるように父に2ストとレーサーレプリカはだめと言われていました)ということもあり、このバイクに魅力を感じたのでしょうか?あまりに昔のことで記憶にもないところです。
さてキャッチの写真ですが、当時私は17才の高校生 。聖子ちゃんカットが懐かしいですね。
片岡義男さんのオートバイを題材にした小説「彼のオートバイ、彼女の島」の表紙のモデルでもあり、後にパリダカにも出走した三好礼子さんが、女性ライダーで集まりたいと始めたMiss Bike Clubの第1回一万人大会に参加し、同級生の軽井沢の別荘にも寄ったりしながら信州方面をツーリングしてきたときの写真です。もちろん、この時も一人でツーリングです…。
Miss Bike Club は雑誌Mr.Bikeのなかで募った女性ライダーの集いです。
一万人集まったらいいねと、会費を一万円に抑えて始めたということを聞いています。
17歳の私は最年少ということで、こんな賞をいただきました。
名誉会長は礼子さん、そして大会会長はというと、今やカー・オブ・ザ・イヤー選考委員も務める自動車評論家・ノンフィクションライターでもある岩貞るみ子さんです。るみちゃんは当時ホンダ社員でした。その後も何かとお世話になっています…。いつもありがとうございます!
第1回目は大型ライダーはわずかふたりで、このお二人に触発され翌年には限定解除してFZ750で参加したのでした。
このころは本当によく走っていました!のちにマフラーをモリワキの集合に変え、毎週箱根通いをしていました。
そしてこのバイクですが、家族ツーリング(父ハーレーFLH、母VF400F、弟GPz400F)で一泊二日の伊東へツーリングに行った際に、弟と調子よく走っていて西湘バイパス国府津サービスエリアに入るコーナーのガードレールに突き刺さったのでした。(この時には2回目の救急車。病院からは弟のバイクにタンデムで温泉に行けども、お湯には浸かれず…)
限定解除取得についてはMiss Bikeのお姉さまたちに触発されと書きましたが、この2度目の救急車で親からの信頼もなくなり、「公安がGood Riderと認めた限定解除」を取らないと!という気持ちもありました。
東大入試より難しいといわれた試験に備えて(合格率の低さからそのようにたとえられていました)、毎日鉄アレイで筋トレ、通学時の電車の中ではコースのイメトレ、友達のZ2で八の字の練習と頑張りました。
1歳年下の弟が鮫洲で受験していたので府中で受験(当時府中の方が合格しやすいという話もありました)、1回目完走するもS字出口でふらつき合格せず、2度目で合格しました。
合格後の高校卒業前に、事故のけがの2度目の手術をしました。
足の傷がひどかったのでそのお直しと、指も曲がっていたので伸ばす手術をするはずでしたが、指の方はブレーキレバーがうまいこと引っかかるので手術しないで済ませてしまいました。今にして思えば、ちゃんとまっすぐさせてリハビリしておいた方が良かったと後悔しております。
そしてFZ購入へと進むのでありました…。
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