My Bike History:HONDA VT250F INTEGRA

My Bike History:HONDA VT250F INTEGRA

いままで乗ってきたバイクを思い出すシリーズ第2回目です。

前回の続きから、2台目はHONDA VT250F INTEGRAです。

VT250は当時とっても流行ったバイクです。女の子バイクともいわれていましたが、RZキラーともいわれ、男子も結構乗っていました。そのフルカウルバージョンがINTEGRAです。

もう、嬉しくて毎週カウルからシートからマフラーから全部外して洗車して、オイル交換も自分でやって、バイクをいじるのを覚えていったバイクです。

2,000円あればガソリン代にして、一人で軽井沢や箱根・伊豆までご飯も食べずに一般道で往復していました。

弟がまだ免許取れなかったので、父と弟は車で、母と私がバイクで家族旅行ということもありました。

VF400Fの母と私VT250F

このころには、母も「アメリカン嫌!」と、VT400Fに乗り換えています。もともと車も好きで、若いころは日野ルノーに乗っていたということなので、仕方ないですね…。

また、お世話になっていたのはKawasakiのお店でしたので、周りはみなKawasaki乗りで、お兄さんたちにツーリングに連れてもらったりもしました。聖子ちゃんカットでデンマンブラシ必携。

聖子ちゃんカットでデンマンブラシ必携

当時、家から走って30分もかからないディズニーランドは開業したばかりで駐車場の少し先までしか道路ができておらず、夜に出かけていっては行き止まりの直線でみんなで押し掛け競争などやっていました。お兄さんたちはみなGPz750Fだったので、軽量なVT250の私は結構早かったです。ちなみに、もう時効ですので話をすると、その場所で上の写真の右側にいる友達のZ2 に乗って一車線のなかでアクセルワークで八の字を書いたり車線を利用しての一本橋という練習を繰り返し限定解除に合格しました。Z2は集合管のまま、ハンドルを変え、エンジンガードつけて練習させてくれました。Oちゃん、本当にありがとうございました!

そんなVTでしたが、残念な形で終わってしまいました。

83年12月26日、銀座中央通りにて散りました…。

同月7日マドリードバラハス空港にて地上追突事故が起こり、事故機のイベリア航空に乗っていた日本人乗客が多数亡くなりました。この処理に追われていたイベリア航空の人が被害者宅へ伺う際の手土産を購入しにタクシーを利用し銀座に行き、渋滞していたので、そのまま路肩によることもなく横を私が走りっているのにドアを開けました。

跳ね飛ばされた私は、路面を滑り路肩に停まる車にぶつかり止まりました。

凄いギャラリーでかっこ悪いなぁと立とうとして足を見たら、ぐじゃぐじゃでした…。寄ってきた人に一言「救急車お願いします。」

病院へ行って手術室でグローブを切られたら、骨が見えました。じっくり見ていたら看護婦さんに「あまり見ない方が良いのじゃないの?」といわれましたが、「自分の骨はなかなか見れないので…。」とまじまじと見てしまいました。しかも「痛い」といったらバイクに乗せてもらえなくなるかもと、一言も「痛い」とは言わず、消毒の時には「痛くな~~~~い!!!」と叫んでいました。好奇心旺盛な高校生の私は、手術室で見るものがすべて珍しくあれこれ聞いていたところ「ちょっと寝ますか…。」という医師のひと言で、あっけなく強制的に眠らされ、気が付くとベッドの上でした。

この時に骨って白いんだとか、脂肪って黄色っぽいんだと実感しました。

そんなことで17歳のお正月は病院で迎えました。

後日談として、タクシーの運転手は開けたところに突っ込んできたと話していたそうですが、CB1100Rに乗っていた叔父が「開けたことに突っ込んだら内張に跡が残るだろう!ハンドルもこんなに内側に入らないだろう!」と警察に話してくれたそうです。

学校にはスキーでけがをしましたと話し、年明けの1月14日まで入院し、退院後も腕までのギプス生活の間に考えるのは次のバイクのことばかり。ギプスにはW高校の男の子たちから激励?のメッセージか多数書き込まれました…。

本当にあほな女子高生でした…。

しかし、いつもツナギや革パンツなのに、この時はジーンズの軽装でした。これ以降、ジーンズでは心のブレーキがかかるようになりました。